いつくしむ 4.5

『いつくしむ』
 
卓也
 
(中略)
 
 
卓也はアートカフェで働くようになって、店のオーナーである英嗣の下、仕事を覚えた。

卓也が見たこの空間は、毎日がとても楽しかった。有名なアーティストや作家と編集者や、美術愛好家達が一堂に足しげく通う。そこは、ただ美術が好きなら、それだけで、全てを許しあえるような、そんな空間に卓也は感じた。

仕事を退職してから絵を描き始めた初老の男性、毎日同じ時間に来て同じ席に座る人物、自分と同じように、大学の宿題をする学生。

美大に通った人やプロ芸術家しか入れないのかと勘違いして勝手に感じていた敷居の高さも、実際は、年齢も、学歴も、職業も様々だった。
 
英嗣はいつも穏やかで、でも無口で、ただただ、カフェに絵を描き続けた。それもまた全てが瞬間的で、そして、その時々の美術作品を作り続けるという事なのだろう。

いつでも佐保の後ろで、同じ距離で、ただただ描き続けていた。綺麗な顔をした英嗣の前は、よく女の子で埋まった。ラテが出てくるまでの全ての行動を見続ける子もいた。まるで彼は、美術界のアイドルのようだった。インターネットでは、王子だとか貴公子だとか書かれていた。テレビ撮影もよく来て、それもまた英嗣目当ての事も多かった。

英嗣に恋心を寄せる女の子も沢山いるようだった。佐保がなぜ英嗣に背中を向け続けるのか、卓也は少し理解したような気がした。気が散るのかもしれないと思った。それでも、もし自分が佐保なら、英嗣に振り向いてほしい常連の女の子が座っただけで、いてもたってもいられなくなるような気がした。

今日もカウンターに座る常連の女子大生グループがいた。しかし英嗣の左手薬指にはまる指輪を見て、それが何を表すのかは分かるらしく、それ以上の何かに発展する事は無かった。英嗣がいなくなると、隣の女の子に、彼女持ちっぽいとささやいた。

英嗣の横で働いている卓也に、笑顔を向ける常連客もいた。卓也は、それはそれで別に嫌な気はしなかった。特に何かに発展する様なことはなかったけれども、バレンタインやクリスマスなどの季節ごとのイベントには、英嗣と二階のスタッフの次にプレゼントの山ができるようになった。ここは美容室のようにご指名のスタッフへのひいきが激しかった。常連が多いからのようだった。

「英嗣さん、五番に、ホットのラテをお願いします」

「かしこまりました」

五番に男性が座ると、相変わらず、ムンクの叫びのような絵をラテ絵に描く。何度見ても可笑しいし、届けた後の反応も、可笑しい。

「おまたせいたしました」

卓也が届けると、

「・・・え?・・・すごいっすね」

一階の静かな店内に、一瞬の声が響くのは、物を届けた時だったりする。

にこり、と、卓也は微笑んだ。この笑い方は、きっと、英嗣譲りなのだろうと自分でも思う。卓也はそんなに他人に愛想笑いをするような性格ではない。それでも、英嗣は、飲食物を運んだ際に感想があると毎回そうするから、これがこの店のマニュアルなのかと思って、卓也も真似している。

「ごゆっくりどうぞ」

卓也は英嗣と同じようににこやかに笑った。

次に運んだカップは、パンダの絵が描かれていた。上野動物園帰りと思われる、二階に座った親子の母親へ。子供がパンダの人形を手にしているのを見たようだ。母親が驚いて、卓也に「わあ、ありがとうございます」といった。そして子供に「パンダ!かわいいねえ」と言ってカップを見せた。子供がパンダパンダ!と繰り返した。

卓也はそれを背中で聞いた。自分が褒められたような嬉しい気持ちになる。英嗣は入ってきた一瞬で彼らを見て、子供がパンダのぬいぐるみを持っていたのを見たのだろう。そして手元に映る二階の映像からパンダを描いたようだった。

「英嗣さん、二階のパンダの方から、ありがとうございますとの事でした」

「うん、ありがとう」

英嗣はカップを置く時と同じ笑顔で卓也に微笑んだ。

それを見た卓也は、まだまだ自分には英嗣の事はよく分からないなと思った。笑顔の向こう側には一体どんな感情と記憶を有しているのだろう。二階の女の子から聞いた噂では、英嗣の描くラフ絵があまりに美しくて、ここにアルバイトに来ていると聞いた。油絵も、水彩も両方描くらしいのだけれど、描くとあっという間に売れてしまうとの事だった。依頼があって、常連のために描くこともあるらしい。でも、めったに描く姿を見る事はできない。なぜなら店を閉めたあとに残って描き続けていると聞いた。

もはやそれなら専業で絵を描けばいいのに、なぜカフェという場所、さらには、こんなカップという小さなキャンバスに絵を描き続けているのだろう。それだけの能力がありながら。卓也には、かえってその能力や技術を使わない事がもったいなく思えた。

まだ卓也には、絵を描くといってもそうした顧客がいる訳でもなく、展覧会も出るだけで精いっぱいだった。順位がつくようなつかないような世界の中で、様々な葛藤で長くもがき苦しんでいる所だった。才能の数が多い英嗣をとてもうらやましく思う程度には。

「英嗣さん、二十六番に、ラテ二つです」

「かしこまりました」

英嗣が今度は何を描くのだろうと見ていると、今度は簡単な葉っぱを二つ作っただけだった。卓也は少し拍子抜けした。おそらく彼女らも上野動物園帰り。パンダとか動物を描くのかと思った。

「二十六番、お願いします」

英嗣は卓也に向けてそう言った。

「あ・・・・はい、かしこまりました」

女の子たちにそれを出すともちろん、「すごーい、きれい」とは言ったけれど、パンダを見た後の卓也には、なぜ今度は描かなかったのか知りたかった。

帰りに卓也はタイミングを見計らって英嗣に声をかけた。なぜ、カップに凝った絵を描く時と、ベーシックな絵の時があるのか、と。

「・・・・・・」

英嗣は答えなかった。

それを聞いていたフロントのサキがフォローを入れた。

「あの二人、二人とも英嗣さんに告白して、フラれた子たちなんです。それでも、来ているので・・・ちょっと追っかけに近いというか。出待ちされたりついてこられたり。変に期待させないようにだと思いますけど、ね?英嗣さん」

英嗣は、

「・・・オレはいいけど佐保が危ないから」

珍しく英嗣が仕事以外の事を話すのを、卓也は妙な心の高揚感と共に聞いていた。

「へえ・・・英嗣さん佐保さん命ですもんね。あの子たちに勝ち目はないのに、なんかかわいそうなくらいですね」

卓也がそう言っても、英嗣はそれ以上口を開かなかった。

「卓也君。あのさ、時間あるの?私ずっと誘いたかった所があって。一緒に帰ろう?近くに新しいお店ができたんだって。雰囲気見たいから、一緒に行こうよ、勉強に」

サキがそういったから、卓也も、

「え?ええ、わかりました」

と言うしかなかった。

カフェを後にして、新しい店へ向かう道で、英嗣の恋愛について、サキが少しだけ話をした。

「あのさ、英嗣さんと佐保さんについて、あんまり気にしない方がいいよ。やっぱり、気になるでしょ、二人の関係。でも英嗣さんも佐保さんも誰にも何も答えないから。あの人たちオーナーの家族みたいだし。みんなどれも憶測ばっかり」

「え?そうなんすか?聞いちゃいけなかったですかね」

「いけないっていうか、なんかもはや空気というか、当たり前というか」

「?」

「なんていうか、英嗣さんたち自身があのお店の動く絵っていうか。生きる絵みたいっていう意味よ?」

「へえ~そうなんですね~」

絵と言われても、だからといって彼らは生きた人間、興味を持ってしまう。仕事は共同作業なのだから。

芸術の人間の中には、時々ほとんど協調性の無い、よく言えば個性の塊のような人種もあるはある。英嗣はそういうタイプでもない。それでも何かどこか遠くの人間に感じてしまうから、少しでも近づきたいと思う。

「もし知りたいなら、英嗣さんに話を聞かせてもらうよりは、絵をみせてもらったら?どんな人か、卓也君なら同じ専門だしわかるんじゃないかな」

「見せてもらえるなら見たいですね」

誰も何も知らない、俄然卓也は英嗣に興味を抱いた。
 
(中略)
 
絵を見たいと願って早一年、ある日卓也は英嗣に頼み込んで絵を見せてもらえる事になった。

営業終了後に、英嗣が二階への階段を登る後をついていった。

英嗣専用の棚から、一つのケースを取り出した。棚はすべてがきれいに整理されて、一つ一つ何かのラベルが外側に貼ってあった。英嗣が描いた絵やラフスケッチが何枚も収められているようだった。

「これだけど・・・」

英嗣はその中の一枚を卓也に渡した。

卓也は言葉を失った。

ピカソの鉛筆の絵を初めて美術館で見た時だって、雷に打たれたように息をのんで、同じように驚いた。あの変な絵(!)に向かう前のピカソの基礎絵は、線一本が美しく、ほとんどない鉛筆の線は、優雅に世界を写し取っていた。

英嗣にも同じような感覚を覚えた。

そして、なぜ、絵を描かないのだろうと。

「英嗣さん!ラテ絵描いてる場合じゃないですよ!」

「・・・どうして?」

「なんで絵を描かないんですか!」

「うん?描いているよ、毎日。紙かコーヒーかは関係ない」

「いや、あの・・・・」

卓也は英嗣に言葉が通じないような気がしてきた。

時々いる。天才中の天才、天然の天才なのだろう、自分の才能が「当たり前」だから、こんな絵を描いたところで、「当たり前」なのかもしれないと卓也は思った。

そして卓也はなぜかすごくイライラしていた。本当の才能があるのにそれを使わない事へのいら立ちと、自分の才能の無さを痛感したいら立ちで、語気を強めた。

「英嗣さんが天才なんだってことはわかりました、それで、あの、いわゆる、仕事として、絵描きにはならないんですか?オレ、もっと英嗣さんの絵、見たいです。多分、今まで生きている人の中で見た絵の中でも、本当に全然違うんです」

「・・・・ありがとう」

英嗣はその言葉も受けなれているようで、たださらりと流した。語気を強めた卓也の態度にも、さほど反応することもない。

だから卓也はなおの事イライラした。自分のレベルの低さを痛感した。精いっぱい真面目に絵を描き続けて、将来について今精いっぱい悩む自分が小さく思えた。天才ならそんな心配すらしないというのだろうか。

卓也は、多分芸術に関しては普通の自分の方が、このカフェに向いている、と思った。自分にはとびぬけた天賦の才能が無いこともよく分かっている。だからこそ、努力を重ねて入った最もレベルの高い芸術大学。自分より十歳も上の人など何人もいるような、奇才天才の集団。精いっぱいの努力で入った自分など個性がまるで無いような世界で、いつも自分は個性の塊の集団の中ではいら立ちを覚えていた。

「・・・・このカフェで働いている方が、収入が安定しているからですか?絵だけでは生きていけないとか」

卓也は思ったことをそのまま口にした。別に責めるつもりはなかったけれども、なんとなくそう言った後に卓也は少しの恥ずかしさを覚えた。

「・・・・お金ではないよ」

「じゃあなんで・・・」

「・・・卓也君には、芸術とは何か、答えがある?」

珍しく英嗣は問われた以外の事を口にした。

「・・・・・・どういう意味ですか・・・・?」

卓也は英嗣の質問の意味が分からなかった。

聞いた英嗣が少し笑って、

「・・・・オレもずっと考えているところ」

英嗣はそれだけ言って、手元の絵をしまおうとした。

「英嗣さん、また見せてください。オレは多分英嗣さんの線一本の足元にも及ばないです。なぜその少ない線と色だけで、こんなに・・・・・」

卓也は言葉を詰まらせた後、涙を零した。

「・・・・すいません。ちょっと先日、友人に絵の事ですごいきついこと言われて少しいら立ってて・・・才能のある英嗣さんにあたってしまいました。すいません・・・・」

卓也は何度もすいません、と言って、英嗣に頭を下げた。右腕で強く一度目元を擦って涙を拭いた。そして、

「・・・・オレに芸術って何って答えがある訳じゃないです。でも多分、芸術って、こういうことを言うのだと思うんです。英嗣さんの線一つ、色使い一つで、オレは、ものすごい感動と共に、なぜ自分にはできないのかって自分の中の弱さを知りました。多分そういう事です。英嗣さんにとって、その絵は当たり前で意味のないものかもしれない。単なる練習とかラフの絵かもしれない。でも。僕には、人生を変えるほどの衝撃なんです。だから、それが世に出てこない事は、もったいないことだって」

「・・・・・・」

英嗣は卓也に座るように促した。

絵の入っていたケースを卓也に渡した。

「それでよければ見ていて」

二階のカウンター向こうで、英嗣は湯を沸かし始めた。

「卓也君、オレは、いわゆる、美術としての絵は、描きたい時に描く事にしている。それは、理解してくれたら嬉しい」

「・・・・もったいないです。こんなに描けるのに。オレがどんなに基礎をやっても、何しても、太刀打ちできないのは、センスってやつなんです。それが無いって、友達にバカにされたばっかりで・・・。オレは・・・・」

卓也は、自分がなぜこんなに英嗣の絵を見て感情を動かされているのか、理解した。見ただけで反射的に誰かに感動を与えうる事。うらやましかった。

「卓也君にセンスが無いと言った友人は、卓也君から見てセンスがあると感じる?」

「わからないです。アイツはいつも芸術を語ってて、それでこの店を紹介されて知ったんです。ここで見たり語ったりするのが何よりも好きだって。芸術をするというよりは学内の芸術評論家なんです。オレはアイツの作った作品よりは英嗣さんの絵がすごく好きです。でもそれもアイツに言えば、お前は分かってないと言われるのかもしれない。悔しいですけどアイツの目は悪くないから、何も言えないのは全部自分の実力なんです・・・」

卓也はまた顔を伏せた。テーブルにぽたりぽたりと涙が落ちた。

英嗣は出来上がったコーヒーカップを卓也の手元に置いた。ムンクの叫びが描かれていた。しかも以前初めて来た卓也が落書きしたように、絵の横に、ハートが描かれていた。英嗣はそれを見ていたらしい。砂糖ではなく、ビターな濃いコーヒー色で描かれていた。

「オレ、今五番に座ってないのに。でも、今のオレは人生最大の落ち込み中なんで、こんな気持ちかも。すげえ嬉しいです。」

と言って泣きながら笑ってカップに口をつけた。

英嗣は少しだけ笑みを浮かべながらただただそばにいるだけだった。
 
 
*****
 
 
卓也を演じている俳優であるユウトは、終わった後に、なぜか蓮を見た。

不思議な感覚があった。

蓮と英嗣の境目がまるで分らずに、何かの答えが欲しくなったような気がしたからだった。


蓮はまるで英嗣のようにただ、お疲れ様、と言って、卓也役のユウトの背中をポンポン、と、叩いた。


ざわつく現場をよそに、卓也はキョーコ同様、演じたあと少しナーバスになった。

「いや、まじでゲイジュツってなんなんですかー敦賀さん!」

「・・・・なんだろうね?」

「オレ原作も読んだんですけど、移動中にざっと読んでいったんで卓也のすごい悔しい気持ちの事しか頭に残ってないです。もう一回読みなおします。でも、英嗣は答えを知っているんですか?」

「どうだろう、先の台本によれば何か彼なりにつかんではいるんだろうね。彼がなぜそれだけの力をもってしても、芸術をするという事にあまり積極的でないのか、そもそも芸術をするという事に視点はないみたいだから」

蓮は彼と共に壁際まで歩いてきて、少し過敏になっているユウトを椅子に座らせた。

冷たいタオルを持ってきたアシスタントの女の子に、ユウトはありがとうございますと言ってそれを受け取った。

そして、あ~と言いながら、涙モードを通常に戻すべく、タオルに目を埋めた。

「いや、なんか、卓也が仕事とか芸術とかを超えて英嗣をどんどん好きになってしまう気持ちが本当によく分かる気がしました。オレ、男が男を思うってよく分からなかったけど、何かわかっちゃうかもって・・・なんかやばいです」

ユウトは少し冗談めかしてそう言った。

ユウト自身は卓也の恋愛について、気持ちは全く分からないと思っていた。けれども、そこにあまり差が無いことが何となく感じられた。彼以外に描けない、いないという尊敬のまなざしとあこがれと。

卓也はこの後恋愛として英嗣を好きになる。その理由が読んだだけでは感覚としてあまり理解できなかったけれども、なんとなく理解したような気がした。

蓮は、

「英嗣は優しくするのも単に仲間への気遣いなんだけど・・・英嗣は残念ながらいつでも佐保しか見てないから、卓也君には優しくするたびに本当に残酷な事をしているとは思うけど」

と言った。

卓也はごく小さな声で蓮に向かってつぶやいた。

「オレ自身には卓也の感情、持ち込まないようにしないと。これはオレの感情じゃないのになんかまるで生きる世界が異なるというか制限が外れたみたいな感覚がしてしまって。いや、オレは、オレなんですけど」

と言ってユウトはどこか助けを求めるように蓮を見た。

「いい仕事をしているってことじゃないかな」

蓮はただ受け止めて微笑むにとどめた。

まるで英嗣のように。

ユウトは、ぬるくなったタオルをマネージャーに渡すと、台本を受け取って、蓮の作った崩れた顔のムンクドリンクに再度口をつけた。
 









2019.2.6